目次

■ 揺籃期 (1938〜1959)     創立までの経緯
■ 創成期 (1950〜1976)     創立と基礎の確立
■ 発展・成熟期 (1977〜2000)  発展と成熟の歩み
■ 現在   (2000〜)

 揺籃期 (1938〜1949)

  中国瀋陽(旧満州奉天)で

嵯峨野教会のルーツは1930年代にさかのぼります。
1936年3月、日本ホーリネス教会に所属していた大槻武二牧師は、
中国の瀋陽(当時の満州奉天)に任命を受けます。
瀋陽では7名の日本人信徒が大槻牧師の到着を待っていました。
そんな小さな教会で、大槻牧師は熱心に「聖霊来たりたまえ」と祈り続けました。

2年間の命がけの宣教活動と祈りを経て、
1938年1月9日、大槻牧師は
キリストの内住体験(キリストが心の内に宿っておられるという確信)を与えられます。
そのときから、「わたしはキリストの体」という確信が与えられ、
大槻牧師の祈りを受けて、多くの人の病が癒されるようになりました。
また同時に、神様のイスラエル民族に対する御計画を知り、
このときから更にイスラエルの救いのために祈るようになりました。
左の写真が当時の大槻武二牧師です。大槻牧師は1938年春、済南に転任し、
日本人と韓国人の救いのために働きました。

1941年11月、再び中国東北部(満州)に赴任した大槻牧師は、
神様の力に満たされて活動し、
中国東北部に一大センセーションを巻き起こしていきました。
1942年7月までの9ヶ月足らずの間に228回の集会がもたれ、
病気が癒された人は8025人にものぼりました。

右の写真は当時の集会に集まった人の写真です。
今でも、この地方に住むお年寄りの中には
当時の大槻牧師の働きを記憶している方々がおられます。





  広島県福山市御幸で

終戦後、大槻牧師は、焦土と化した祖国の廃墟に立ち、
打ちひしがれた人々の心に、キリストの福音を伝えたいと強く願いました。
当初は超教派の牧師として求められるところはどこにでも出かけていき、
「内住のキリスト」のメッセージを語っていました。
その後、神様の導きにより、1946年聖イエス会を創立しました。
「キリスト者はキリストのごとく 教会は使徒行伝のごとく」を標語に、
小さな教団が産声を上げたのです。
教団の未来を支えるために広島県御幸に聖イエス会ロゴス修道学院(現 聖イエス会ロゴス神学院)が設立されました。(左の写真) 
現在、御幸には聖イエス会御幸教会のほか、
日本で最初のホロコースト記念館が建設され、
平和を学ぶために全国から人々が訪れる場所となっています。
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 創成期 (1950〜1976)

  創立の頃〜わんこうハウス

1949年、聖イエス会はロゴス神学院を京都に移すことを決定しました。
1950年5月1日大槻武二牧師は、京都市右京区宇多野の現在の場所に、
「聖イエス会嵯峨野教会」の小さな看板を掲げました。
嵯峨野教会の建物は近所の人からは「ワン公ハウス」(犬小屋)と呼ばれていたほどの小さなものでした。
当時の嵯峨野教会の正会員は、大槻牧師の家族を含めて7名でした。
(右の写真は初期の信徒の皆さん)
1952年から、多くの人々が、神様の御名を呼ぶことによって、聖霊を受け、
キリストの内住を体験していくようになりました。
1953年には32名の方々が洗礼を受け、礼拝の平均人数が75名に達しました。



  会堂建設

1955年、待望の教会堂が建設されました。
この会堂は、聖イエス会本部教会であり、
またロゴス神学院の教室としても使用されました。(左写真)
さて、1938年から、イスラエルの救いという神様の御計画の実現を祈ってきましたが、
実際にはまだ、イスラエル人に出会ったこともありませんでした。

1962年11月、ついに一人のイスラエル人青年夫妻が
大槻牧師に会うために京都を訪れました。
彼らは、日本経済を学ぶために大阪大学に留学していた学生でした。

  聖歌隊の発足

1956年、嵯峨野教会に小さな聖歌隊が産声を上げました。(右は当時の写真)
最初は決まった指揮者もなく、名前もない貧弱な聖歌隊でした。
後に「黎明(しののめ)聖歌隊」と名づけられ、
教会の発展と神様の御計画のために力強い働きを担うようになりました。
しののめ(夜明け)という名は、聖書の詩篇からとられたもので、
世界平和の夜明けを早めるためにという願いから名づけられました。
その名の通り、黎明聖歌隊は神様の御計画を実現していくことになります。

15年後には黎明聖歌隊が母体となって、
全国からの選抜メンバーを加えて「黎明合唱団」が組織され、
ヨーロッパ、イスラエルを訪問し、平和のメッセージを力強くうたいました。
その活動は北米にも広がり、2007年までに14回の海外公演を果たし、
黎明合唱団の歌う聖書のメッセージが世界中で受け入れられるようになりました。

嵯峨野教会の活動はいよいよ活発になりました。
1959年には竜安寺バス停前広場で、野外特別伝道集会が開催され、
800名ほどの人々が集まり、神様のみ言葉を聞きました。
会堂も手狭となり、最初の教会堂が建てられて7年後、
東側に更に大きな会堂が建設されました。(写真左)
これは大槻武二牧師伝道活動30周年の記念聖堂となりました。
それまでの教会堂は「旧会堂」と呼ばれるようになりました。

1969年、大槻勝牧師(写真右)が嵯峨野教会主任牧師として任命されました。
さらに1972年には大槻武二牧師は聖イエス会の責任者である「司牧」の職を勇退しました。
それ以降、大槻武二牧師は霊の父として、尊敬の念を込めて、「霊父(れいふ)」と呼ばれるようになりました。
大槻武二霊父は、なお聖イエス会の霊性向上のために指導に尽力したほか、
ロゴス神学院での講義を通して後進の指導に熱意を傾け続けました。





創立以後20年の間に、嵯峨野教会の今日の活動の基礎が築かれました。
教会は熱気を帯び、多くのメンバーが加えられました。
また、そのユニークな平和活動は海外からも高く評価されるようになりました。
左は創立20周年の記念写真です。

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 発展・成熟期 (1977〜2006)

  現在の会堂の建設

1977年、現在の教会堂が建設されました(写真左)。
正面には三浦啓子氏作による、「ロゴスの顕現」をあらわす大きなステンドグラスが輝き、
パイプオルガンの響きと相和して、
新しい時代の到来を予感させ新会堂となりました。
聖ヨハネ大聖堂と名づけられ、
嵯峨野教会の活動の場として現在に至るまで用いられています。



1984年、聖イエス会の霊性の向上を願う大槻武二霊父の祈りに応えて、
広島県福山教会で「聖霊の傾注」が与えられ、
嵯峨野教会もまた、福音と使命への純粋さを新たにしました。

1993年、併設されていた、聖イエス会ロゴス神学院が京都府京丹波町に移転されることになりました。
ながらく教会の活動にも積極的に携わってきた神学生が移動し、
嵯峨野教会は新たな局面を迎えました。

そのような中、佐藤捷雄牧師(現聖イエス会ホサナ教会牧師 写真右)が
第3代嵯峨野教会主任牧師として任命を受けました。
佐藤牧師のもと、教会は更に発展と成熟を遂げることができました。


  株分けの時代

1992年、亀岡市在住の信徒の祈りと献身的な活動によって、
聖イエス会亀岡リベカ教会(写真左)が発足し、嵯峨野教会から株分けされました。
さらに1995年には、洛西ミズラ教会が設立され枝分かれしていきました。
右の写真は2000年の嵯峨野教会創立50周年の記念写真です。












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 現在 (1992〜)

 福音と使命を継承して

1992年大槻霊父と共に嵯峨野教会を支えてきた、大槻筆子霊母が天に召されました。
嵯峨野教会は大きな寂しさを抱えつつ、更に成熟と発展を目指しました。

その後も大槻霊父はイスラエルの救いと世界平和のために命を注ぎだして働きました。
そのような大槻霊父の活動を評価して、
1999年、エルサレム市は名誉市民の称号を大槻霊父に贈りました。
また、ヘブライ大学やバルイラン大学など、
イスラエルの主だった大学からその活動を高く評価されました。

2004年大槻霊父(写真左)は地上での生涯を終え、天に召されました。

嵯峨野教会は創立者の精神とビジョンを尊び、
神の言葉である聖書に堅く立ち、
新しい時代に向かって邁進していきます。
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