キリスト教では先祖を大切にしないようですが ?

質問
 私にとって宗教とは、先祖代々のお墓を大切に守り、仏壇を守ることです。
キリスト教ではあまり先祖を大切にしないように思われますが。

祖先崇拝のありかた


 私も子供の頃には、仏壇にお水やご飯を供えて、今日一日をお守り下さいと、祈っていた一人です。
そして、それに、何の疑問も感じませんでした。
しかし、聖書を知り、真の神と出会ったときから、そのようなことをしなくなりました。
それは、「死んだ者イコール神」ではなく、死者を礼拝すべきでないことを理解したからです。
そして、祖先に対してではなく、真の神に対してこそ祈りを捧げるべきであることを理解しました。
だからといって、祖先を大切にしていないとは思っていません。毎日、お祈りしますし、記念会をとおして、亡くなった者の徳や生き方を偲び、また墓の清潔に心がけています。


 キリスト教徒が、先祖を大切にしないと批判されているのは、
日本の伝統的な仕方で祖先を崇拝しないからです。
しかし、その日本人が伝統的に持っている、祖先や死者に対する宗教的感情こそ問題なのです。

 日本人の場合、祖先を敬愛するばかりではなく、その霊がたたるという恐怖心から、
それをなだめるために、立派なお墓を造り、捧げものをします。
またある宗教では、死んだ者に対して、生前十分に尽くすことができなかったという負い目につけ込んで、供養を要求しております。
また祖先を守り神としてあがめ、礼拝を捧げることすらあります。
これらのことは、日本人の多くが、唯一の神を知らないところから起こるのです。

ダビデ王のエピソード


死んだ者と、生きている者の関係を表したおもしろい例を紹介いたしましょう。
ダビデはその子が病気で死に瀕していた時、断食し、祈っておりました。
しかし、その死が知らされたとき時、彼は起きあがり、身を洗い、着物を着替えて食事をし、
日常の生活を再開したのでした。
これを見た周囲の者たちは不審に思いました。
ダビデは次のように答えたのです、


「わたしは再び彼をかえらせることができますか。
わたしは彼の所に行くでしょうか。
彼はわたしの所に帰ってこないでしょう」(サムエル下12:23)。


愛する者、身近な者の死は耐え難いものです。
ダビデはすべてをゆだねる信仰に生きたのです。

 イエスに対してある人が「まず、父を葬りに行かせてください」と言った時、
「その人を葬ることは死人に任せておくがよい、
あなたは、出て行って神の国を告げひろめなさい」と教えられました(ルカ9:59、60)。
 これは非常に厳しい言葉として響いてきますが、
同時に神の国のよき音ずれを今、生きている人に伝えねばならないとの、強い使命を感じるのです。
キリスト教は、今生きている人をより強く意識し、よりよく生きる者に変える宗教なのです。

本当の追悼とは


 お墓を守ることも大切でしょう。故人の記念行事を行うことも大切でしょう。
祖先を大切にするとは、祖先を崇拝するのではなく、
彼らが成し遂げ得なかった尊い遺志を受け継ぎ、発展させることにあると思います。
パスカルは故人を追悼する記念会について次のように語っています。
「故人が、この世におられるなら、きっと、私たちにして欲しいと思うことをしなければならない。」と。

 先祖代々のお墓を守ることにとどまらず、祖先の遺志をしっかりと見つめて、
人類の救い、平和、福祉のための人生を生きることこそ、本当の追悼となることでしょう。
イスラエル民族の解放者モーセの最後について聖書は次のように語っています
「こうして主のしもべモーセは主の言葉のとおりにモアブの地で死んだ。
主は彼をベテルに対するモアブの地の谷に葬られたが、
今日までその墓を知る人はない」(申命記34:5)
私たちの人生もまた墓石に名を留めるだけでなく、
墓石を越えて、人々の心の中に名を刻む人生でありたいと思います。



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