宗教の本来の姿

質問
  今日の日本の宗教界のあり様を見ていると、
何か宗教本来のあり方とから逸脱しているようで、
宗教に対して、つい批判的な見方をしてしまいます。
宗教の本来の姿とはどのようなものでしょうか。

 地上に見られる生き物のうち、人間だけに宗教心があると言われています。
確かに、犬や猫が宗教的な行為をしたということを、見聞きしたことがありません。
何故人間だけに宗教心があるのでしょうか。
その点について聖書は、人間が神の性質に似せて造られたためであると、教えています。
ここに、私たち人間の尊厳があります。

 宗教を定義することは、なかなか難しいことですが、
神と人間の関係から言えば、次のように言うことが出来るでしょう。
宗教とは、神を見いだし、神を礼拝し、神の命によって、神と共に生きる道です、と。

 人生には、喜びもあれば、悲しみもあります。
楽しい時もあれば、つらい時もあります。成功もあれば、失敗もあります。
単に苦しい時にだけ、神だのみをするのでは本物ではありません。
どんな時にも、神を礼拝し、神に仕えることが大切です。
そのために大切な事は、神を知るということです。
神を知ってこそ、神を愛し、神を信頼する事ができることです。
この神を知る道についての使信を与えようとして、様々な宗教が生まれました。
私たちは、どの宗教を選ぶべきかと言う問題に直面するのです。

聖書によると、人間が造られ、この地上に置かれたとき、神を父として愛し、神に仕えることが、人間にとって無上の喜びでした。ところが、人間は、神の愛よりも、悪魔の誘惑のことばに耳を傾け、彼に従いました。神に仕える事よりも、かえって、神に背を向けました。こうして、罪に落ちた時から、人間は神に顔を向ける事ができなくなり、その心には、暗闇が覆うようになりました。

 しかし、人間の心のうちから、宗教心が失われたわけではありません。
神を求める思いは残っています。礼拝せずに生きる事は出来ません。
そこで、多くの人々は、真の神に代わるものとして、様々なものを拝んできたのです。
太陽や月に手を合わせる人々、山や海や川を拝む人々、
木や石や金属で像を造り、それらを入れるところを造って拝む人々、
また死者を拝むこと、さらには何も拝まないと言いながらも、
自分を全ての基準にして、自分を崇拝する人々というようになりました。
そこに共通している事は、人間の根源的な空虚さを満たそうという願いから、
人間が造りだした神々であり、宗教だという事です。
解決の方法は一つしか有りません。偽りの宗教から、真の宗教へ、
偽りの神々から、真の神に帰ってくることです。

聖書は、神と人間についての三つの重大な真理を教えています。
 一、私たちの不幸の原因が罪にあること。
 二、神は、イエス・キリストによって、私たちを罪から救い出して下さる事。
 三、神の命によって、神と共に生きる真実な人生について。

そして、他の宗教では、すでに死んでしまった創立者の教説に従うように促しますが、イエス・キリストは私たちの罪のために死に、ゆるしを与えるために復活され、今も生きていて、その救いのみ業に信頼するようにと私たちを招かれるのです。キリストに招かれ、罪を悔い改めて、イエスキリストに信頼する者は、聖霊によって全く新しく造られた者となると、聖書は宣言します。

 日光の入らない暗い洞窟の中では、植物が芽を出しても、成長し花を咲かせ、実を結ぶ事が出来ないように、神に愛され、神を愛し、神と共にいるという光がなければ、私たちはどんなに幸せそうに見えても、本当の意味では、幸福もいのちも所有している事にはならないのです。
必要なことは、愛し救って下さる神に、愛と感謝と賛美をもって、従うことです。
それこそ私たちの幸せであり、人生の目的です。

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