祈りについてお尋ねます

質問
 どうしようもなくなった時、祈りの言葉が口から出ますが、神様に聞かれているのか、聞かれていないのか分かりません。祈りは、単なる独り言のように思えます。  

 日本人の祈り

日本では一般に「祈り」は神仏への「祈願」と考えられていますね。
元旦に初詣をして、商売繁盛や、無病息災を祈ることは国民的習慣であり、
入学試験の合格や良縁に恵まれること、病気治癒を祈願することもあります。
これらの「祈り」「祈願」は、ほとんどの場合、自分のためや、自分と深い結びつきのある人々のために捧げられるものです。その動機は、非常に自己中心的であると言わなければなりません。
そして、思い通りにならないと、あそこはダメだ。こちらの方がよいと、右往左往してしまします。
神様って、自分の希望や夢を安易に実現してくれる便利な存在なのでしょうか。
決してそうではありません。人間が神を使うべきではなく、人間は神に仕えるべき存在です。

 キリスト教の祈り

 キリスト教の祈りは、恵みと信実を持って招かれる神に、思いと言葉とをもって近づき、
いのちの交わりを持つことによって、まことの神から知恵と力とを与えられる道です。
 イエスは、十字架につけられる前の晩、ゲッセマネの園で、次のように祈られました。
「どうか、この杯をわたしから取りのけてください。
しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」(マルコ14:36)。
「この杯」は、十字架を意味していました。できたら十字架にかからないようにしていただきたい。
しかし、神のみこころを優先してください、とイエスは祈っているのです。
そこには、自己中心的な思いを越えて、神の意志を求める心が溢れています。 
これが、「祈り」の、根本的な姿勢です。

 主の祈り

 イエスは祈りの模範として、「主の祈り」を弟子達に教えました。
この祈りは二つの部分に分けられています。
前半では、神についてのものです。
神の御名があがめられるように。み国が来ますように。
みこころが私たちの世界にも行われますようにと祈られています。
後半では、私たち人間の事柄についての祈りです。
日毎の食べもの、人間関係の解決、試練からの救いが祈られています。
この祈りにおいても、神へ栄光を帰すことが優先され、
次に人間生活の様々な領域での解決への訴えが続きます。

 聞かれる祈り

 ここに、聞かれる祈りの秘訣があります。
即ち、神の御心にかなった祈りであること。
それによって、御名が崇められること。
イエス・キリストの名によって祈ること。
粘り強く、挫折せず、いちずに、熱心に祈ること。
そして、二人であれば両者が、大勢であれば、一同が一つ心になって祈ること。
また、清い心で祈ることです。
 これらの条件を満たしていない祈りでは、神に聞かれない祈りとなるでしょう。
また、神は、愛と全知とにより、祈りや願いとは別の最善の道へと導かれることもあります。
使徒パウロは、自分の病気について、その治癒を祈ったことがあります。
この病気がなければ、もっと神のために活動できる、と考えました。
ところが、神からの答えはこうでした。
「わたしの恵みはあなたに対して十分である。
わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」(IIコリント12:9)

 いのりの力

 祈りは、人間のみが行うことの出来る崇高な行為です。
誰でも、神に語りかけることができます。
神は、どんな小さな叫びにも耳を傾けられます。
「あなたがたの中に、苦しんでいる者があるか。その人は祈るがよい。
喜んでいる者があるか。その人は、さんびするがよい。
あなたがたの中に、病んでいる者があるか。
その人は、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらうがよい。
信仰による祈りは、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。
義人の祈りは、大いに力があり、効果のあるものである」(ヤコブ5:13以下)

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