なぜ聖書に奇跡の話が書かれているの

質問
 教会の牧師のメッセージの中で、奇跡の話が出てきましたが、何かおとぎ話のようで、信じられません。奇跡の話がなければいいと思うのですが。

 

 聖書は奇跡で満ちている


 確かに聖書の中にはたくさん奇跡の話が出てきます。
特に、新約聖書ではイエス様のなされた奇跡が数多く目につきます。
 海の上を歩かれたとか、五つのパンと二匹の魚で五千人の人々の食事をまかなわれたとか、
死んで三日もたっているラザロという死人を生き返らせたとか、
結婚式の席でぶどう酒がなくなたとき、水をぶどう酒に変えられたとか、数えればきりがありません。
 まず奇跡ということを考えてみましょう。
奇跡とは、自然法則の下では、一般には起こり得ない「不思議」なことです。
奇跡を、起こり得ないこととして全く否定してしまいますと、
聖書に記されている奇跡は、全く理解できない事となり、信じることの妨げとなると感じます。
それでは何故、信じることの妨げとなっているような奇跡の話が、聖書の中に記されているのでしょうか。

 奇跡は事実です


 まず、奇跡はおとぎ話や創作されたものではありません。
それは歴史上の事実です。
聖書の奇跡の記述は、目撃者の証言に基づいて記されているのです。
もしそれが偽りであるならば、それに反対する意見も述べられたことでしょう。
奇跡の出来事は、信仰に反対する人々も認めるところでした。
 特に、イエスのご生涯を記したルカによる福音書の著者であるルカは、医者であり、医者としての正確な目で奇跡をとらえています。彼は当時の医学用語をもちいて、キリストの奇跡を記しています。体の不自由な者がいやされたり、死んだ者がよみがえった奇跡は、医者ルカによって記述されたものであることを忘れてはなりません。
 

 奇跡は信仰を助けます


 次に、奇跡を除外したほうが、信仰しやすいと考えることは大きな誤りです。
キリスト教は、イエス・キリストの処女からの出生、死人の中からの復活という信じられないような奇跡の上に立っている宗教です。聖書の中から奇跡を削除して、益となる人生の教訓だけを拾い出すことはできません。それは救い主の偉大な力を見失わせることとなるからです。
 聖書の神は、「ただひとり、大いなる不思議を行われる方」です。イエス・キリストが真の神であり、救い主であられることを証するしるしとして、自然界に対して、病に対して、罪に対して、悪霊に対して、さらに死に対しても支配する権威を持っておられることを示されたのです。生きておられる神様なら、これぐらいの奇跡を行われるのは、当然のことではないでしょうか。「地上の奇跡は、天国における自然」です。

 奇跡には法則があります


 聖書の中の奇跡の話を注意深く学びますと、どれにも一つの原則があることが分かります。
それは、人を愛するあまり、何としてもその人を救おうとされる神の愛と、
神は信じる者に応えてくださることを信じる信仰のです。
この二つの条件が満たされるとき、奇跡が現れているということです。
その意味で、奇跡はきわめて合理的ということが出来るでしょう。
 このように、聖書に奇跡の話が含まれている理由は明確です。
「イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。
しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、
また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。」(ヨハネによる福音書20章30、31節)
 以上の事を心に留めてもう一度、キリストの奇跡を記したみ言葉をお読み下さい。
奇跡の中に大きな恵みが、すばらしい真理が隠されていますよ。

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