運命ってどうしようもないのですか?

質問
不幸な星のもとに生まれる人もあれば、苦しみを知らないような人もあります。神様が愛ならば、何か不公平のように感じます。なぜ苦しみに満ちた不幸な人生を送らなければならない人があるのですか。

 運命をどううけとめますか


 「屋根の上のバイオリン弾き」の主人公テビエを思い出しますが、
あまりにも大きな障害や試練に出くわすと、神様はなぜこんな不幸をお与えになるのだろう。
なぜこんな不幸な星の下に生まれたのだろうと、ついつぶやきたくなります。
 生まれた境遇についてばかりでなはく、
人生の旅路の中で、突然愛する伴侶を失ったり、かけがいのない息子が不慮の死を遂げることもあります。
このような過酷な運命に遭遇すると、なぜ私だけがこんな目にと、自分の運命を呪いたくなることでしょう。
 この自分の力を越えた「運命」の力を、私たちはどのように受けとめればよいのでしょうか。
昔のギリシャの賢人たちは、この問題を霊魂の不滅、生命の流転によって超えようとしました。
いわゆる「輪廻転生」です。
今は不幸な境遇でも、善行を積んでいけが、来世にはもっとよい境遇のもとに生きることが出来るとの考えです。これは一見合理的に思えますが、根拠のない考えです。
また、いくらもがいてもしかたがないと、自らの運命を切り開く努力を放棄して、「あきらめ」てしまっている方もあります。
 

 運命の扉を開く方


 聖書では、このことについてどう語っているのでしょうか。
 ヨハネによる福音書九章に「生まれつきの盲人」の話が記されています。
「生まれつき」盲目であった彼は、夜空に輝く星も、野辺の花も、慈愛に満ちた両親の顔も見たことがありませんでした。
そればかりか、神に呪われた者として、社会的にも、宗教的にも見捨てられるという悲惨な運命のもとに生きていたのです。 
彼について、イエスの弟子たちは、この悲惨な運命の原因を親の罪なのか、本人の罪なのかと尋ねます。
しかし、主イエスは「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。
ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」と答えられました。
 そのような不幸な境遇にある彼の人生の中に、神が介入され、神の業を行われるときに、
悲惨な運命の力から解放され、彼にしか果たすことの出来ない使命をはたしながら神の栄光を顕すことが出来ると語られたのです。
そして、キリストは彼の肉体と精神の目を開かれて、すばらしい神の業をあらわされました。

 運命に打ち勝つ人生


 どのような苦難の中にも、神が共にいて下さり、神の栄光への道を備えて下さいます。
キリストのみ言葉によって慰められ、励まされ、苦難の中にも、自分の生きる道を見いだして、神の栄光をあらわす生涯を送っている多くのクリスチャンがいることを知っています。
 ゴスペル・ソング歌手レーナ・マリヤ・ヨハンソン(スエーデン)もその一人です。
生まれつき両手がなく、左足も右足の半分しかないという重い障害を持ちながら、ステージでも日常生活でも、一片の暗さも見いだすことができません。
彼女はその秘訣をこう言っています。
「肝心なのは、神様が私をどうお使いになるかを知ることです。
そのみこころを注意深く聞き分けて従っていくなら、迷いがなく、何をやってもうまくいくと信じています。
たとえ苦しい試練があったとしても、神様は、それをすばらしい恵みへと変えて下さることを、
私は知っています」と。

 まことに、「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、
万事を益となるようにして下さる」<ローマ8:28>のです。
 今あなたは、過酷な運命の大波に翻弄され、悩みの淵に一人おかれていると感じていらっしゃいますか。
神はあなたと共におられます。
そしてあなたの負いきれない重荷を担って、共に歩んで下さいます。神の業を期待しましょう。

サイト管理者 聖イエス会嵯峨野教会   
Copyright(c)2008 Sagano Church. All rights reserved
☆ホームページの記事・画像の無断使用、無断転載はご遠慮下さい。