どうすれば信じられるのか?
質問
キリスト教では、道徳的な善行為によって救われるのではなく、
信仰によって救われると聞きましたが、なかなか信仰を持つことができません。
どうすれば、信じることができるのでしょうか。
信仰は聞くことから
病気の人は、自らを癒すことはできません。
罪という心の病を持つ人間には自らを救う力がありません。
救い主なる神を信じることによっってのみ救われるのです。
あなたが病気になり、病院に行ったときのことを考えてみましょう。
病人が医者を訪ねるときは、まず第一に、自分の苦しみを取り除くことのできる医者がいるということを、期待します。そのような医者を見い出したら医者の言葉に耳を傾け、彼の手に自らを託します。それは、あなたが医者を信じているからです。
キリスト教においても同様です。
まず、私たちの救いと幸福に強い関心を注いでおられる神がおられることを知ることです。
次に、神の語られる言葉に耳を傾けることです。
そして、神の御手に自らを委ねることです。
そして、神の救いを見るのです。
しかし、現実には、次のように考えておられる方が多いようです。
「神を信じるための証拠を見せてください」。
聖書の答えはこうです。「証拠を見て信じるのは、完全な信仰ではないでしょう。
まず信じるのだ。信じるならば、神の栄光を見ることができる」と。
結果を見てから、信じるのは、真実の信仰ではありません。
イエスは言われました、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。
見ないで信ずる者は、さいわいである」(ヨハネ福音書20:27〜29)。
アブラハム〜信仰の父と呼ばれた人
クリスチャンだけでなく、ユダヤ人からも、イスラム教徒からも信仰者の父と仰がれているアブラハムの偉大さは、まさにその点にありました。
彼は、「父母の国をでて、神の示される約束の地に行きなさい」とのみ声を聞きました。
その時、彼はそこがどんな所であるか知りませんでしたが、神の言葉に従って、出発したのです。
それは信仰による大いなる冒険旅行でした。
アブラハムへの神の約束は、
「彼の子孫は大いなる国民となり、彼は祝福の源となって、
地上の諸国が祝福を受ける」というものでした。
ところが彼には子どもがなかったのです。
年齢的にも子どもをもうけることは不可能に思われました。
しかし、彼は不信仰に陥ることなく
、神は約束したことを実現させる力をお持ちの方だと、確信していたのです。
すなわち、神が「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して、存在させてくださる」と、信じたのです。
ついに彼は九十九歳に至って、「我は全能の神なり」と宣言される神との劇的な出会いを体験し、
翌年待望の約束の子の誕生を見たのです。
信仰はダイナッミックな力
信仰は造られるものでも、教え込まれるものでも相続されるものでもありません。
いつの時代でも、またどんな人にとっても、信仰は本人自身の決断です。
「イエス・キリストの十字架は、私のためであった」と、
イエスの救いのみ業を、自分に向けられたものとして、個人的に受けとめることです。
私も、イエス・キリストの十字架は世界人類のためであったと理解していた間は、
一向に救いの確信を持つことができませんでした。
しかし、キリストの十字架が、私のためであったと知ったとき、
私の心に真実の信仰が芽生え、アブラハムのように神と出会って、救いを体験することができました。
太陽の光をレンズを通して、紙や布に受けるとき、太陽の熱は紙を燃やします。
すべての人に注がれている神の愛と神の約束を、個人的なものとして受けとめるとき、
神の力はあなた自身とあなたの人生の上に働き始めるのです。
信仰とは、神の愛と力を体験するためのすばらしい霊的レンズであり、
実にダイナミックな力です。
「もし信じるなら神の栄光を見るであろう」
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